いのたま
line

(4)
line

(4)★しゅとうるむ・うんと・どらんく(疾風怒涛) -4-2001/05/07

2度目の高校2年の秋、わたしはまったく起きられなくなった。朝、目覚まし時計の音は聞えるが、体がバラバラになったようで動かない。手足が切断されたら、こんな状態になるのではないかと思ったほどだった。昼近くになる起きられたが、登校するのが恥ずかしかった。

強い焦燥感は一日中続いた。わたしの誕生日は11月。もうすぐ18歳になる。

父が死んでから、わたしたち兄妹は児童扶養手当を受給していた。奨学金は特別奨学生といって、普通の倍の額が出た。それに、高校の授業料は半額免除だった。自分は親に食べさせてもらっていない、同年代の子より経済的には自立している、そう思うことで一連の問題行動に対する罪悪感を打ち消していた。

だが、もうすぐ18歳になる。あと少しで、児童扶養手当が下りなくなる。そうなれば、わたしは完全に扶養される立場になってしまう。さんざんの問題行動で家にいづらいのに、家族のお荷物になってしまうのだ普通なら、あと少しで卒業だけど、わたしは1年休学している。少なくても1年間、親に頼らなきゃいけない。

その年の10月、前年に治療を中断したクリニックを再受診した。方薬で自殺を図り、勝手に通院を中断した医者の所にもう一度行くのはバツが悪かった。でも、なぜか他の医療機関に行こうとは思わなかった。1年前、高校を休学するという提案をしてくれなければ、どうなっていたかわからない。ここなら、何とかしてくれそうな気がして、私は今度こそきちんと治療を受けようと決めた。

問題行動が収まるまで1年近くかかった。自殺未遂は2回、その後がアルコールだった。3カ月以上、浴びるほど飲んだ。母が漬けた梅酒とレモン酒、余った菓物とリカーで漬けたワケのわからない酒は、すべて空にした。そこで、酒を売る近所のスーパーで、度数が高い安酒を買い、二日で一ボトルのペースで開けた。毎晩、大人でも多い量を飲み続け、吐きまくり、最後は胃の粘膜のようなピンクのとろとろした物が出てきた。

夜遊びもした。私が住んでいた町は、近くにアメリカ海兵隊の基地があり、毎週土曜は若い連中が遊びに来る。海兵隊員たちとつき合う中で、どういうわけか、わたしは片言の英語が話せるようになった。日本語ができない彼らの代わりに、飲食店のメニューを解説し、代わりに注文したり、寿司を食べてみたいというから、一緒に回転寿司に行って、辞書を引きながら魚介類の名前を英語で言った。

必ず奢ってくれたし、プレゼントもくれた。限定物のジッポのライターや、まだ日本では高かったバーボンをわざとねだり、欲しがる日本人に売りつけた。学校の成績は最低だったが、この時ばかりは通訳の真似事をしているようで気分が良かった。1980年代前半当時、日本未発売の香水をつけていた女子高生など聞いたことがなかったが、わたしは贈られたエスティ・ローダーのシナバーを愛用していた。

もうすぐ親に扶養される立場になる不安のせいか、18歳の誕生日の前後数カ月間、わたしの生活は荒れに荒れた。

次 次 次 上 上 上 前 前 前