いのたま
line

(2)
line

(2)★しゅとうるむ・うんと・どらんく(疾風怒涛) -2-2001/05/05

わたしは初診の日をよく覚えている。1980年3月1日。その日は高校の卒業式で、1年生だったわたしは休みだった。陽射しは暖かかったが、風はまだ冷たかった。

最初に行ったのは、公立の総合病院だった。問診、脳波検査、ロールシャッハ・テストなど一連の検査の後、医師の診察を受けた。脳波検査の後で、頭がボーとしていたので、何を話したか覚えていない。15分くらいの診察の後、3週間分の薬が出た。何の薬か知らない。当時のわたしは、薬の知識は皆無だった。

そして、週に1回カウンセリングに通うことになった。カウンセリングは苦痛だった。カウンセラーは40代の厳格そうな男性で、学校の先生みたいな印象だった。45分だったか50分の面談中、下を向いて、私の話を聞くだけ。世界でいちばんポピュラーなロジャース式のカウンセリングだが、高校2年のわたしがそんなことを知るはずがない。うつむいて、時には腕組みしながら話を聞くカウンセラーは、わたしの話に退屈して居眠りしているような感じがして、怒りが沸いてきた。

初診から2カ月目、カウンセリングの最中にわたしは爆発して、口論になった。カウンセラーは、また来るよう手紙をよこしたが、その時は3度目の自殺を計画中だった。今は倒産したスーパーの薬局がブロバリンを売っていて、12錠入りを4箱買い、酒と一緒にのんだ。

救急車で近所の内科に運ばれた時は、危ない状態だったらしい。かなり暴れたらしく、手足がベッドに縛られていた。生まれて初めての抑制だった。尿道には管がさし込まれ、ちりちりと痛かった。

3、4日で退院し、家に戻ったが、もう授業には出られなかった。教室に入っても、20分かそこらで出て、すぐ近くの市立図書館に逃げ込むか、家に帰った。父が死んでから、母は勤めに出ていたので、帰宅しても誰にも文句は言われなかった。

カウンセリングには一度も行かなかった。この頃、また家出して、北陸地方で補導されている。私はすべてが嫌だった。家族も学校も嫌いだった。いちばん嫌いなのは、大学に進みたいと思っているのに、全然勉強しない自分だった。

次 次 次 上 上 上 前 前 前