いのたま
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しゅとうるむ・うんと・どらんく(疾風怒涛) -1-2001/05/03

拙著『お金で悩まない こころの治療生活』でも書いたが、精神的な病気とつき合って24年経つ。最初の症状は食べ物に出た。1977年秋、わたしは13歳だった。

中学2年の春、思春期に入って肉がついたのが気になってダイエットを始めた。いちおう成功したものの、その年の秋、もらいもののお菓子を食べてタガが外れた。毎晩のように、家族が寝静まってから、冷蔵庫を明け、食べ物をむさぼった。その後は、必ず下剤をのむか、口に指を突っ込んで吐いた。

絶食は、何度もやった。母がつくった弁当は、こっそり捨てた。体重を気にするわたしの弁当箱は、幼稚園児並みの小ささだったのに。過食・嘔吐・過食の日々は一年余り続いた。152センチだった私の体重は、38キロから54キロの間を揺り動いた。

そんな頃、父が脳いっ血で急死した。44歳だった。兄は高校2年、わたしは中学3年、妹は小学校6年生だった。父の葬式が終わると、なぜか食の衝動は収まっていた。だが、数カ月で問題行動が行動が始まった。

高校に入学した翌月、わたしは繁華街の本屋にいた。本屋を出て、横断歩道を渡っていた時、突然「死んだほうがいい」という思考がやって来た。ただ、家や家の近くで死ぬのは嫌だった。母がわたし名義でつくった通帳を盗み出し、7万円引き出し、夜中、ボストンバッグに衣類とお気に入りの本を入れ、家を出た。まだ国鉄と呼ばれていた電車に乗り、北海道に向かった。

家出3日目、旅館で薬をのんだ。何をのんだか、思い出せない。自分では、睡眠薬自殺のつもりだった。でも、翌朝、目が醒めた。妙にすっきりした目覚めだった。この薬は死なないのか、とがっかりした。そして、持参した剃刀を取り出した。2枚重ねると縫合が難しいと聞いていたので、3枚重ねた。最初に切ったのは、確か右の首筋だった。その次が両方のこめかみ。出血多量ですぐ意識を失うと思っていたが、そうならなかったので、左の首筋も切り、ついでに肘から手首を5、6箇所切りつけた。

気がつくと、病院にいた。縫い合わせた糸が突っ張る感じがしたが、麻酔が残っていたせいだろう、あまり痛くなかった。翌日、母が迎えに来て、一〇日ほど親戚の家で過ごした後、自宅に戻った。

しばらくは学校に通ったが、だんだん不登校気味になってきた。朝、だるくてたまらない日もあったし、学校そのものが嫌いだった。成績は、見事なくらい急降下した。入学直後のテストは上位だったのに、秋には授業にまったくついて行けなくなった。

高校1年の11月、2度目の自殺未遂。風邪薬1ビン、アスピリン1箱を酒屋で買ったワインで流し込んだ。でも、また目が覚めた。自殺に失敗したわたしが始めたことは、性的逸脱というやつだった。複数の男性とつき合い、時には物質的な見返りも得た。毎週土曜が性的逸脱の日で、午後から夕方にかけて見返りをくれる男性に会い、いったん帰宅する。そして、夜遅く家を抜け出して、別の男性のアパートに行った。

これだけ問題行動を起こしても、母は黙っていた。自分の娘が精神的な病気だと思いたくなかったのかもしれない。それに、子供を3人も抱えて未亡人になって、わたしのことを考える余裕はなかったのだろう。だから、自発的に病院に行った。このままでは、未来がないと思ったからだった。医療費は「歯医者に行く」と嘘をついて、母から千円札を2枚か3枚もらった。さすがに一人では怖くて、交際中の男性に付き添いを頼んだ。

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