長い間、医療側の対応と医療の問題点や医原症に関して書いてきました。今日は別の観点からこの問題にアプローチさせてください。
疾病利得とも共通する問題かもしれませんが、人間は「怒り」特に「相手を責める」という行為から何か興奮や自己称賛を得ているという点です。程度差はあるにせよ、犯罪行為を責める、親の虐待を責める、他人の失敗を責める等の行為により、徐々に人間は「責める事の快感」に結びついていきます。
勿論、犯罪行為は悪であり、悪に値する行為から何らかの被害を受けていることは当たっています。しかし、長年責める行為を行っていると、「客観性」と言える内容の割合が自分でも麻痺してきて、自分の主観に塗りつぶされていくのを感じます。法律の判断、社会慣習の判断、家族知人の判断、被害者と認識している自分自身の判断、これらは皆異なります。
一番厄介なのは、被害者であると認識している自分自身の判断です。
受けるいわれの無い交通事故に遭いながら刑事訴訟で無罪になったら「相手を赦し」、更に「別の頬も向けて」愛を示すことなんて可能なのでしょうか?宗教は人間が到達不可能な領域を示しています。
その認識の第一歩は、「自分は責める事によって何かを得ている」という観察・認識でしょう。自分は大した人間では無い。実は凡人であり些少なつまらない存在であると考える事が可能でしょうか?神仏は偉大であり自分を超える存在であると認める事ができますか?
相手を一方的に責める・攻めるという態度は、自分こそが最も正しく究極的判断能力の主体である崇高な存在だという論理に基づいているのです。
p.s. いのたま様への返信に言及しておらず申し訳ありません。今後とも、訂正等よろしくお願い致します。 |
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